年末年始の休業日

2024と2025年末年始の休業日は、12月26日から1月5日までとしました。

みなさんも佳い年末年始になりますように。

いつもと違い、雪の多い年末年始になるかもしれませんね。特に早朝や峠道の運転は気を付けてください。

興福舎のみんなはゆっくり休み、家族だんらんを楽しみます。

ホームページ更新しました

様々な人たちに協力をいただき、興福舎のホームページ更新が完了しました。

またいつか更新することもありますが、よろしくお願いいたします。

興福舎代表 伊藤邦男  2024.10.25記

10月からキャンペーン終了

東日本大震災から割引キャンペーンを継続しておりましたが、興福舎運営経費が厳しくなっております。

やむを得ず10月から終了します。皆様ごめんなさい。興福舎代表拝。

本当にごめんなさい。ホームページの変更は制作会社担当者に本日9月30日に伝えましたので、もうすぐです。重ねてごめんなさい。

ホームページ更新中

只今、興福舎のホームページを更新中ですが、トップページの変更作業が未完成です。

経費高騰の折と連携店舗閉店、商品作成不可能となったなどの事情により、ホームページの更新を行いました。

トップページ中、東日本大震災復興と六角舎利10%割引、マッシュポスト10%割引を取りやめていますので、お知らせします。

 

 

納棺士と

8月5日釜石市に住む納棺士から電話がありました。

それは、海洋散骨の実態を勉強したいとの申し出で、お互いのスケジュールから翌日の午前10時に興福舎の事務所でお会いしました。

彼女はアメリカ人の父と日本人の母との間に生まれました。育ったのは釜石。

ですから、日本語はペラペラです。すると、お客様も日本語で話すハーフの納棺士で安心です。銀行融資の経営計画書も制作中。興福舎の仕事と納棺士の仕事の濃厚な時間が持てました。

興福舎は15年目

釜石税務署に2010年7月7日に開業を提出して、興福舎は岩手県遠野市で第1歩をスタートしました。

開業当時は「手元供養」という単語が知られていないのでしたが、最近は現代用語の基礎知識にも記載されるほど認知度が上がっています。

と同時に、樹木葬や墓じまいなどの単語も知られるようになって来ています。

岩手県内では、初めてのこの種の事業がスタートしたのです。興福舎(こうふくしゃ)の社名は、奈良県の興福寺にあやかって名付けました。これからも興福舎をどうぞよろしくお願いいたします。興福舎代表拝 2024.7.13記

 

即断即決も夫婦

6月28日、夫婦で休みが合わせられる日ということでこの日に興福舎に来舎。

夫婦で犬の散歩中にあ墓は持たないと決めていた山〇洋、〇子ご夫妻は、粉骨加工時間中の昼食で二人で手元供養品を選択。

粉骨が終わったなら、亡父の実家近くで散骨するため、長靴2足を車に詰め込んで来ていました。

粉骨加工の説明と質疑応答が終わり、手元供養品のカタログを提示してよく相談してからと手渡したのです。説明手元供養品の選択は昼食中にシンプルモダンに決めたのです。

在庫確認を行い、注文が確定。来月にはご自宅に郵送します。

献体の後に

岩手医大に平成4年1月24日に死亡してすぐに母が運ばれて2年。葬儀らしいことは行わず、今日6月22日土曜日午後3時30分に矢巾町から。

合同慰霊祭が終わって、礼服で興福舎に来舎して粉骨加工を行った娘の宇夫〇多〇さん。

予め、電話で連絡相談があり興福舎で面談中、「父を含めてそうゆう家族なんです」と言っていました。

後始末はさばさばした娘さん。やはり世の中を動かしているのは女性です。

日曜日のお客様は二人と

5月26日の午後4時の予約で興福舎に大人二人と子供3人がやってきました。

車は黒のボックスワゴン。「子供たちは車の中で待たせますから」と事務所で大人二人が着席です。

3人の子供たちの二人は、興味があったのか中に入って来ました。一人はおしっこで興福舎のトイレを提供しました。

入れ替わり入って来る子供たちのお世話をしながら、質問に対応しました。

「7月3日の亡くなった父の誕生日にあわせて、粉骨加工をまた依頼しに来ます」と約束して、5人は帰って行きました。「お墓は継承が無理なので、岩手県内に興福舎があってよかったです」と別れ際に言っていたのです。お墓を持たない選択肢があります。

完全予約制なのですが

5月22日午前11時に興福舎のインターホーンが鳴りました。

「予約してないのですが、話を聞きたくて」と盛岡市から〇下〇〇子さんの訪問を受けました。

興福舎は完全予約制なのですが、突然のお客様です。たまたま自宅母屋にいたので、事務所に招き入れました。

様々な質問があり、丁寧にお答えしてカタログを手渡しし、「お盆に息子が帰ってくるので、相談して決めます。その時にはよろしくお願いいたします」と帰っていかれました。